私の体験を含め、身近な方々に介護の体験談を伺いました。「取りくんでよかったこと」「やってよかったこと」などは個人の感じ方です。家族関係や環境はそれぞれ異なり、みなさまのご家族に合う介護方法があろうかと思いますので個人の感想としてご参考としてご覧ください。
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母:84歳(享年)要支援1 バイオリンが生きがい 2018年2月に自宅で突然死 週に1回ヘルパーさんに自宅に来てもらっていました
父:86歳 要支援1 仕事が生きがい リハビリデイサービスに週1回
母が実家で突然亡くなる。その日から現場検証で数日間実家に入れず。父と犬 が我が家に来て生活が始まる。
杖が手放せない父の恵比寿の暮らしで気づいた、街を歩く人の速さ、お店やコ ンビニの段差や階段、初めて親の紙パンツを購入する時の何とも複雑な感情(でもその後は掃除や洗濯がグンと楽になり紙パンツは手放せなくなる)。また犬の世 話など生活も一転。
「自宅で突然亡くなるとその後が大変」と聞くが、まるでテレビのサスペンスド ラマのように警察の聴取を家族全員が何度も受け、死亡に関する膨大な事務手続 きに追われ、母の死を悲しむどころではありません。
そんな中、狭い家で父との共同生活は限界となりました。しかし父は要支援の体で、公共の特養には入れないので、週末は有料老人ホーム等の見学を一緒に重ねました。そして母が他界して約1カ月半後、今度は父が移動途中に転倒。入院して輸血を受けるほど弱っていた父は、仕事を引退することを決意。
8カ所の高齢者施設を見学、東京から新幹線で1時間のその施設には父の知人が 勤務していた縁もあり即決し、入居しました。
今は自然豊かなその地で職員のみなさんにお世話になりながら、趣味、食事療法、リハビリ、近くの温泉の利用などにより、とても元気になりました。
父:79歳 自営業 地域活動にも尽力
母:75歳 父の仕事を支え、地域活動にもかかわる主婦。今は父の介護に従事
父が2018年1月に肝臓がんと診断される。2~3月は抗がん剤投与のための入院。 長い入院期間で筋力低下。食も細くなり、母は父に食べさせることに苦労し、母自身が参ってしまいました。
病気も介護も初めての中、手探りではありますがと にかく母を一人にはしておけない!と思いました。母には父に無理に食べさせようと思わず、食事時間もあまりこだわらず、時にはお惣菜を買ってもよいとアド バイスしました。
トイレの問題も退院後徐々に始まり、父の紙おむつを初めて買った時は涙が出そうになったけど泣いている場合ではないと奮起。
介護認定が下りてからは、介護保険を利用しバリアフリーにリフォーム。
思い入れのある自宅は3階にあり階段を使用しますが、足元がおぼつかない階段は危険なため、誰かが付き添いながらの移動になりました。
またデイサービスを見学に行き、通うことに前向きになりました。
退院後は杖をついて外出もしていましたが、だんだん難しくなり、車椅子使用 になりました。
実家周辺は坂が多く、車椅子での外出はとても大変。子育て中にベビーカーを押していたころも不便でしたが、車椅子はベビーカーの5倍以上の重さがあり、路地を通る際の段差、横断歩道に下りる際のわずかな傾斜も怖いです。車椅子は後ろ向きに引くこともあることも知りました。
ただ、車椅子の散歩は、町会に知り合いの多い父にはとてもいい刺激です。何人もの知り合いに会って挨拶を交わす、こんな笑顔のコミュニケーションをたくさんとっていきたいです。
母:77歳 要介護5 町内ではちょっとした世話焼きおばさんで有名だった 週2回のデイサービス、1回のリハビリマッサージ 月1回のショートステイ、月2回の訪問診療
父:77歳 自営業 現在も仕事を続けているが、母親の介護が生きがい
母親が70歳を過ぎたころ、もの忘れが激しく、それまでやっていた自治体の役 に支障が出始めたため、すべての役を父親が辞めさせました。
するとそのころから被害妄想と幻視が激しくなったので、病院で精密検査を受けさせました。結果はレビー小体型認知症と診断されました。
しばらくは父親が仕事を続けながら、母親の面倒を看ていましたが、診断を受けてから3年がたち、父親を含めた身内の認識もできないことが増えたり、パーキンソンの症状で歩行も困難になり、父親からSOSが来たため僕は都心を離れて実家の近くに転居し、買い物や料理、デイサービスの送り迎え等の父親の手伝いをしている現在です。
父:元会社員
母:主婦
父は70歳位まで仕事をしていたが、現役引退後、家での生活になり近所のかかわりが全くない状態のなか、会話がどこかおかしく、また口数が少なくなりました。また75、76歳位まで朝晩散歩に行っていたが、自分でどこに行って良いかわからなくなってきたようでした。
父の外出時の対応として、外出時は免許証と電話番号の書かれた紙をポケットに入れておきました。なかなか帰宅しない時は事故や熱中症などが心配で、警察に届けたこともありました(徘徊の症状はありませんでした)。
そんな父の変化を見て検査を受けるようにと言ってもなかなか行こうとせず、家族で話し合い、通っている大学病院の先生に相談したところ、本人に「認知症の検査」とは言わずその大学病院の精神科で検査してもらうことになりました。
認知症とわかってからは父の車を処分し、本人は寂しそうでしたが免許証も返納しました。
母は近所の人に父の状況を話しましたが、父は穏やかであまり余計な事を言わない人だったので、みなさんになかなか信じてもらえずに困りました。特に父の兄弟は信じたくないようでした。
その後も通院して投薬を受けましたが、徐々に電車に乗ることにも問題がでてきたようだったので、私が仕事を抜けて父の病院の付き添いをしました。また病院の受付などでも認知症の父の行動でやりきれない思いをしたこともあります。
徐々に持病の薬や認知症の薬を飲むこともままならなくなり、要介護3から要介護5に一気に進行しました。
トイレのコントロールも難しくなってきたころから、介護している母は本当に苦労をしました。またそのうちに母や子どもたちのこともわからなくなってきました。家での介護だけでなく、デイサービスやショートステイも利用しました。しかしショートステイを利用したものの、施設のドアを壊してしまいそうになるなどの問題を起こしてしまい、施設の泊まりは難しいという判断になりました。
自宅での介護はどんどん大変になり、介護ベッドをリースするといった対策が必要でした。
介護されている父は感謝ではなく抵抗が多く、認知症の症状で悪気はないのは理解しているものの、母や家族が疲弊しました。
父は何度か体調を崩したため介護施設に入りましたが、施設に行ってすぐに誤嚥(ごえん)肺炎で病院に転院しました。その病院を3カ月後にいったん出てもらうよう言われたものの、亡くなるまでそこに入院することができました。亡くなるまでこの病院では寝たきりの生活でした。この病院では看護師さんによくしていただき、父はよく話し、楽しい人でした、と教えてくださいました。
週末はなるべく実家に帰るようにしていたのですが、一気に症状が進んだころ、私はなかなか父の行動を理解できず、父につい文句を言ってしまうと、母に「しばらく家に帰って来ないで」と言われました。それは怒った父が暴力を振るうようになっては困るとの気遣いからで、認知症の症状は人さまざまで考えもつかない事が起きるからです(おかげで父は手をあげることは一度もありませんでした)。
介護をしている母を見て感じたことは、老老介護は本当に大変で「よしやるぞ!」と思っても身体がついていきません。小柄な母は父の世話を続け、足腰を痛めてしまいました。また日常あまり大きな声を出したことがなかった母ですが「声を荒げることが多くなった」とも聞かされました。
進んだ認知症は良くなることはなく、その後もさらに症状が進むだけで、第三者の助けがなければ家族全員が不幸になるように思います。父は多くの方にたくさん助けていただきました。お金があってもなくても、お世話になる施設が大きい小さい関係なく、やはり人と人との出会いが大切だと思います。
母:76歳(享年) 要介護5(亡くなる1週間前にいきなり要介護5に)退職小学校長会役員
父:78歳(享年) 要介護5(要介護3⇒要介護1⇒要介護5)
2015年11月に父がアルコール依存症のため入院、翌月近くの病院で検査を受け た母が、ステージⅢの卵巣がんと診断され、大学病院に入院。
4回の抗がん剤投与でがんを小さくしてから手術をすることに。母が入退院を繰り返す中、父の退院が決まりました。
父はアルコール依存症による認知症も発症しており、病床の母に父の面倒を見させられないこともあり、「暫定的」に自宅から徒歩3分の介護付き有料老人ホームに病院からそのまま入居させました。
2016年1月から抗がん剤治療をはじめた母は同年7月4日に手術。オペ室まで見送って30分後に担当医から呼びだされ「がんが広がり過ぎてオペができない」と宣告されました。「手術さえすれば治る」と思っていたので、この時のショックは筆舌しがたいものでした。ショックに浸る間もなく10日後、病院内のソーシャルワーカーさんと面談。 「自宅に帰りたい」という母の希望を伝え、それから介護認定の申請。 7月23日に自宅に戻った母は気丈にふるまっていたものの容体が急変し、息を引き取りました。希望を持って臨んだ手術からわずか27日後のことでした。
父には最期まで母が亡くなったことは秘密にしました。これは施設のケアマネさんから事実を伝えるとショックでさらに認知症が進む可能性があると言われたため。
「母さんはまだ入院中か?」と聞かれるたびに胸が痛みましたが、父の友人や親せきにも口裏を合わせてもらって2年間ウソを貫きました。
父は入居2年後に高熱を出して、大学病院に。腸閉塞と診断され、人工肛門になり、その後父は一切食べることをやめてしまったため、*胃瘻(いろう)を造設。生きていくためには点滴か胃瘻かの2択でしたが、後者の場合であれば元の施設で受け入れ可能だったため胃瘻に。
このまま病院を転々とするより、精神的にすこしは良いのではないかと考えてのことでした。
施設に戻ってからスタッフの方たちも懸命にリハビリに協力してくださいました。
3カ月後の2018年7月、誤嚥性肺炎で再入院。約2週間後に亡くなりました。 父は天国に先に母がいてビックリしたかもしれません。
激動の3年間でしたが、寂しいよりも正直今はホッとした気持ちが強いです。
両親から最後に教えてもらったのは「老いるということ」。私自身もゆっくりですが終活を始めていこうと思っています。
*胃瘻(いろう)とは:病気やけがのために口から栄養を摂取するのが難しい人のために、胃に穴を開け、直接栄養を送り込む手段。
生前、多くの友人と交流があった両親ですが、両親それぞれの友人と連絡をかなり密にしました。 代表の方に現状を伝えることで、その方が連絡網となり他の友人・知人に情報共有してくださったので、都度、同じ説明を繰り返す手間が省けました。
入院中に母が作った住所録には、氏名・住所のほかに、関係性まで記載されていたので葬儀の時にすごく役立ちました。
預貯金のこと、家のメンテナンスの業者名・連絡先・頻度など引き継ぎノート?的なものが今でも助かっています。
またケアマネさんや訪問看護師さん、老人ホームの受付の方たちに相談を積極的にすることで、かなり不安が解消されました。
もっと早く検査を受けてもらえばよかったです。セカンドオピニオンや他の治療法についてもっと積極的に調査するべきでした。
心身共に元気な時に死生観を聞いておくべきでした。手術や胃瘻に関しても、本人ではなく私の判断で行うしかなかったため、これでいいのか、私の独りよがりなのか常に不安でした。
父:要介護5 寝たきり状態 認知症 2008年没 94歳(享年) 介護期間:86歳~94歳(8年)自宅で介護
母:要介護5 寝たきり状態 認知症 2017年没 104歳(享年) 介護期間:83歳~104歳(21年)自宅で介護
以下は、我が家において行った介護です。初めから下記の介護レベルにあったわけではなく、日々変化する被介護者の状況に適合した介護レベルと考えるものを手探りをし,
もがきながらの結果として到達した内容です。
すべての家庭に適用できる内容ではないと思いますが、部分的にでも参考にして頂だければ幸いです。
この間8年程度は父母2人の介護(主に自宅にベッドを二つ並べた状態で)を行いました。
終末期には延命と自然死の判断、最期を看取る事への恐怖の気持ちが交錯。
介護期間中は、泊まりがけの旅行などには大きな制約がありました。
健康管理は、すべてを医師に任せ入院はさせないとの家族としての判断を医師と共有。どんなことがあろうが100%自宅で終末を迎えることを確かな気持ちとして持ち続ける、このことが医師との信頼関係にとってとても重要。
とにかく我が家における20年以上の介護では、家族の心が折れそうになることが何度か生じたことは確かです 介護とは、いつまでという期限がないものなので、はじめから気張らずに、かまえず向かい合うという姿勢でやることを心がけたいと思います。
家族介護者の負担を軽減するためには、公的支援サービス、特別養護老人ホームや期限付き老人施設等をためらうことなく積極的に活用することを推奨します。
父:80歳 高校の元校長先生で以前はお酒大好き。7年前に軽度認知症と診断さ れるがすぐに認知症について調べ、サプリメント等も利用し、今でも母と二 人三脚の「自立」生活。母:79歳 話し好き、料理好きの明るい主婦。夫婦二人で実家に住んでいます。
「軽度認知症と診断されてもすぐに大きな変化はなく、早めの投薬と食事や生活の工夫で長く付き合っていけそうです」
役所への書類提出忘れに気づき、慌てて役所に行ったらすでにその書類は当人が提出済みで、「提出していたことを忘れていた」という出来事があり、それをきっかけに脳外科に行き、MRIや認知症テストを受けました。
アルツハイマー型軽度認知症と診断され、本で認知症について調べ、「コウノメソッド」について知り、実践している先生を見つけ、相談しながら薬やサプリメントを飲み始める。家族みんなで認知症がどういうものかを理解して接すること7年、今でも実家で夫婦穏やかに自立した暮らしができています。
母の的確な指示のもと、家事全般を手伝い、毎日のウォーキングや地域の仲間と週3回のグラウンドゴルフを楽しみ、穏やかに暮らす。認知症予防に効果のある漢字ドリル、クロスワード、数独パズルも趣味の一部。
健康番組を観て、父の健康のため認知症に効果のある食事を作る。*自身は両脚人工股関節、白内障手術などを経験。